東日本大震災レポート

東日本大震災取材レポート(5)

カメラ:白水政浩
取材先:宮城県気仙沼市
取材期間:2011年9月1日~12日

9月1日から12日まで、宮城県気仙沼市のプラザホテル内にあるJNN三陸支局へ応援に行きました。
RKBからは記者、カメラアシスタント、そして私の三人です。

○支局の体制
支局ではJNN系の中継クルーが1チーム、ENGクルー3チーム、編集は1チームの応援体制で随時稼動可能な常態での勤務でした。この体制でネットニュースはもちろん、TBC東北放送の朝昼夕のローカルニュース、中継、企画と盛りだくさんの仕事をこなすわけですから、当然ENG班も中継を!。 慣れないケーブル巻や、記者とカメラマン、そしてCAと三人だけでの生中継、震災時に備えて出来るだけ少人数の体制で、と言う事だが慣れない仕事に久々緊張を感じました。
今回の三陸応援は、過去の応援(オウム事件や雲仙普賢岳)などの応援体制のイメージを払拭、全員野球というわけではないが応援チームに一体感があったように思えました。

○ 取材を通して感じたこと
今回の応援で企画取材をしたひとつに、子供たちによるジャズバンドチームの取材がありました。なかには家が全壊してしまった子供も数人いました。 そして、指揮をとる先生自身もまた、家が全壊した被災者です。
そんな被災者に福岡から来たテレビ局が、自分達の都合で被災した家を見せてくれ、仮設住宅に行ってもいいかなどと、他人の家に土足で上がりこむようなことをいう私達の要望を嫌がることなく受けいれてくれる。
また、家が全壊し祖父母と父親を亡くした酒屋家族の取材でも、息子や母親に思い出したくもない当時の状況を現場でインタビュー。こちらでも笑顔で取材に協力してくれる、そんな様子には感無量でした。
被災した方々からよく耳にする言葉がありました。「自然災害だから仕方ない」「自分だけじゃないから」「前に進まないと」という 言葉です。 三陸の海岸沿いを車で走ると、一時間も二時間も延々と津波の被害です。 これだけの被害を受けながら、前向きに考える事が出来る東北人の強さに脱帽します。おそらく短期間で薄っぺらな私達の取材に付き合ってくれたのは、少しでも自分達の思いを伝えたいという思いからではないかと感じました。

○ まとめ
今回のJNN三陸支局応援では、少人数での中継体制の大事さを再確認しました。これはRKBでも災害時や緊急時など、すばやく生の情報を放送するには必要なことだと思いました。
取材に関しては、あれほどの被災地で取材をするうえでは、対象者の本音と建前を見極めながら取材を進めていくこと、画と音が強いだけにその分相手の気持ちを考えながら取材をすべきではないかと思いました。
今回の応援はそういった意味でも勉強になったし、応援取材に行ったスタッフが、どんなところでどんな取材をしているのかという事も分かって、応援に行かせて頂いて大変良かったと思いました

東日本大震災取材レポート(4)

カメラ:切明国浩
取材先:福島県全域
取材期間:2011年8月8日~18日

テレビユー福島 TUFの取材応援で8月8日に福島へ入りました。
福島駅で降りて、TUFへ向かいます。車の中から見る限り震災の影響は感じられません。
いたって、普通の生活がおくられているように見えました。
とりあえずTUFへ入り、福島第一原発事故よる放射線の影響など取材に関する諸注意を受けました。
TUFの社員はもちろん、JNNから応援に入っているスタッフは線量計を常時携帯、被曝の状態を監視することになります。
福島の南相馬など海沿いの地域では津波の被害を受け多くの家が流され、死者・行方不明者も大勢出ています。
ただ、岩手県や宮城県の被災地と違うのは、福島第一原発事故による放射能の被害をうけていることです。
原発周辺では遺体の捜索なども思うように進まず、県内の行方不明者約240人のうち約8割が、原発周辺の双葉、南相馬、 相馬地域の方です。
また、原発から30キロ以上離れた飯舘村も計画的避難区域に設定され住民はここで生活する事が出来なくなりました。
農作業ができなくなった田畑は荒れ果て一面雑草に覆われ、郵便局やその他店舗なども全て閉まっており、
歩く人が見えない街の様子はとても異様に感じました。この飯館村を車で走ると車内でも線量計が約4μ㏜/h(毎時マイクロシーベルト)を示す場所があります。ここの住民が普通の生活を送れるようになる日は来るのでしょうか。
また、他の地域でも家屋ごとの調査が行われており、特定避難勧奨地点に指定されると、集落の中でその家だけが避難する事になります。
隣の家が避難した方にインタビューしましたが、ほんのわずかな数値の違いで避難する補助金がもらえるなど不公平だと感じているようでした。
南相馬市でお盆の墓参りをする人たちを取材しました。一人黙々お墓の掃除する男性、カメラを向けようとすると傍にいた人から止められました。この男性は3人のお子さんを津波で亡くしたそうです。私はカメラを向ける事が出来なくなりました。カメラマンとしては失格なのでしょう…。
たとえ津波で壊れていても墓参りが出来る人はまだ良い方だと思います。自宅やお墓が警戒区域の中にあり家に帰ることも墓参りもできない人もいます。老夫婦のインタビューでは「お父さんが家に帰りたいと言って泣くんだ…」と言うおばあさんの悲しそうな表情は忘れられません。
福島市内でも学校や幼稚園、学校そばの通学路など教育関係の場所は夏休みを利用して除染作業が行われていました。ただ、夏休み期間だったにも関わらず屋外で遊ぶ子供たちを見つけることができませんでした。市内の公園は遊ぶ子供たちもおらず、人が入らなくなった為か一面が雑草でおおわれていました。福島では小中学生1,000人以上が夏休み明けで県外に移住してしまったそうです。
除染作業は各地で行われているようですが、全ての汚染地域を除染するには果たして何年かかるのでしょうか。また、回収された放射性物質の対応も各自治体で苦慮しているようです。
福島第一原発の事故で放射能汚染された地域は、除染作業が順調に進んでも、普通に人が生活できるようになるまでには途方もない時間がかかるでしょう。実際お年寄りの中には生きているうちに自宅へ帰ることができないと諦めている方もいました。
岩手や宮城の津波被災地は少しずつですが復興していくと思います、しかし福島では…福島第一原発事故による放射能汚染は目に見えない壁となって福島の復興を妨げています。

東日本大震災取材レポート(3)

カメラ:青木周作
取材先:宮城県気仙沼市
取材期間:2011年8月11日~22日

今回私はJNN取材班として宮城県気仙沼市にある「JNN三陸支局」に行きました
気仙沼はRKB独自番組取材で行った2ヶ月前からしか比較ができませんが、津波が襲った地区で再開した商店などで電気が復旧し始めていました
ガレキが少し減ったような感じですが、ほとんど手つかず状態という印象です
頻繁に発生する余震で更に地盤が沈下しているのか、満潮時に浸水する面積が増えてるようです

>同行した記者が5月に取材した「かき漁師」に3ヶ月ぶりに再会しました
当時の避難先から仮設住宅に引越しをされていましたが、仮設の手狭な悩み、漁を再開しても即現金収入にはならないことの悩み、同じ地域で被災した人と、被災していない人の意識の違いで人間関係に溝ができ始めてることの現実などの話を聞かせてもらいました。

>南気仙沼小学校二年生の女の子を取材しました
自宅ごと津波に流され奇跡的に救出されたものの、母娘とも心に大きな恐怖体験となり、お母さんから今でも子供が津波に飲みこまれていく夢を見てしまうという話を聞きました
女の子は愛着のあったランドセルが発見されたものの、それを見ると津波を思い出すということで、笑顔で話す表情の裏には深い心の傷があることがわかりました
夏休みの子供に少しでも元気を取り戻して欲しいという願いから、JNN三陸支局などが主催してSMAP香取慎吾さんを迎え「夢の授業」が行われました
授業では「夢」をテーマに絵を描きましたが
被災した女の子は将来の職業として「自衛隊の看護師」を画用紙に描きました
津波という恐い体験をしたものの、自衛隊の救助・復興活動を小学2年生の彼女なりに見つめ頼もしく感じたのでしょう。そのことを香取慎吾さんの前でしっかり発表していました
その様子をRKBクルーで撮影し「Nスタ」で大きく扱ってもらいました。
まさに被災者に寄添い、被災地から発信続ける大切さを実感した取材でした

東日本大震災取材レポート(2)

カメラ:山本 徹
取材先:宮城県仙台市
取材期間:2011年8月1日~12日

私は2011/8/1から8/12まで東日本大震災の応援取材でJNNの系列局のTBC東北放送に行って来た。 阪神大震災、福岡西方沖地震と経験した私でしたが、空港から出た瞬間、ビルの壁にくっきりと付いた高さ10メートル以上ある津波の跡。海岸沿いの松林が全て枯れてしまっている様子。 おそらく家並があったと思われる基礎の跡。動物系のたんぱく質の腐敗臭。 今までに経験したことの無い状況に改めてこの地で何人もの人が生活を奪われ亡くなったのだと思い知らされた。

私が今回訪ねたのはメディアでよく目にする「陸前高田」「気仙沼」といった場所ではなく宮城県の南部、福島県との県堺の「白石市」「丸森町」だった。
海岸から離れたこの町は津波の被害こそ無かったが、福島第一原発事故の影響で町のいたるところで放射線を観測している。

牧場を営む農家では食肉用の牛が出荷停止になり、事故の後に購入した牧草は汚染の可能性があるためエサとして与えることも出来ず放置されている状態だ。
取材させていただいた農家では現在無収入状態でエサ代300万円分、牧草の処理費用(牧草を地面に埋める)等が重くのしかかっている。
そんな中でも「我慢する期間が分かっていれば、頑張れる。しかし、この状態がいつまで続くのか分からないのが辛い」と本音を漏らす。
福岡から来た我々に快く協力していただいた住民は「もっと早く取材に来て欲しかった」と口にする。系列のTBCも被災したスタッフがいたり、人手が足りない中頑張っている事も知っている。短い応援の期間では人々の切なる声にカメラを向けるしか術が無かった。
取材をして感じたのは、メディアは被害の大きい所に集中しがちで、震災から5ヶ月以上経過した今もそういう取材を行っている。もちろんそういう「絵になる」取材も大切だが、被災した人達を孤立させてはいけない。
そういう取材を行っていく事こそニュースに携わる我々の最も大切な仕事だと感じた。

東日本大震災取材レポート(1)

カメラ:丸本知也
取材先:宮城県仙台市
取材期間:2011年7月22日~8月2日 

私は7月22日から8月2日まで、TBC東北放送応援取材に行った。

東日本大震災から5ヶ月近く経ち、ニュースの企画ネタもやりつくされていて、応援で入っても手伝える事も少ないのでは、と思っていたが、現地入りして、その懸念はいきなり、払拭された。

仙台市内の田んぼや海岸には、未だに津波に巻き込まれた車があちこちに放置されたままでこれまでに、8000台を撤去したものの、まだ1000台以上の車両が残されたままだし、今後は山積みにされた車両の解体処分をどうするか等、問題は多い。

日本三景のひとつ、観光地松島では、人的被害はなかったものの、津波の被害で未だに2割の宿泊施設が休業中で、営業出来ている宿泊施設は、工事関係者でいっぱいで、観光客にとっては宿不足の状態が続いていた。そんな中観光客のために再建を目指し、従業員総出で改修工事をしているホテルを取材させてもらった。

石巻では奇跡的に助かった漁師の夫婦に出会い、仮設住宅にいるものの、元々住んでいた海の近くの地域の再建計画も未だ決まらないことや、漁に出ても、仕掛けていた網には津波で流された瓦礫、窓のサッシや流木等が引っかかり、網が破れてしまう事など、もどかしい現実を聞かせてもらった。

福島県との県境、福島第一原発から60kmの丸森町では、原発担当大臣の細野氏が、小学校の校庭の放射性物質の除染の様子を視察に来た為同行取材。地元住民から、「宮城南部にはメディアも来ない。」といわれた。実際、地元のテレビ局も目に見える被害が大きな所から取材して、南部地域まで取材できていないようだった。丸森町の筆甫小学校の校庭には、高い放射性物質を含む土が入ったポリバケツが置いたままだし、畜産農家では、放射性セシウムに汚染された牧草がエサとして与えられないので、1つ300キロもある塊がかなりの数、山積みになっていた。

原発がある福島県の対策には政府も力を入れているが、今後の保障が定かでない上、放射能被害の拡大も心配な状況は、隣接する宮城県も変わらないはず。この様な困っている人達の現状を、丁寧にフォローして伝え続けていく事が、今後も大切なのだと感じた。

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